SNSの「公開処刑」と、かつて私たちがかいた恥の話
SNSを眺めていると、ある種の「地獄絵図」を目にすることがあります。
それは、誰かの思慮に欠ける一言に対し、見ず知らずの群衆が数千、数万という単位で襲いかかる、現代の「石打ちの刑」のような光景です。
「想像力の欠如」という名の無防備
きっかけは、ある飲食店主の切実な訴えでした。
「お店とスタッフを守るために、度を超えたマナー違反はやめてほしい」という、至極真っ当な願いです。しかし、そこへ驚くほどピントの外れた反論をぶつける人が現れます。店側が守ろうとしている本質を無視し、極端な揚げ足取りで挑発するような一言。
それを見た群衆は、一斉に牙を剥きました。発言主は一瞬で「袋叩き」に遭い、逃げ場のないほどボロクソに叩かれることになります。
その様子を見ていて、私はふと不思議に思ったのです。
「この人はこれまでの人生で、こうして厳しく指摘される機会が一度もなかったのだろうか?」と。
「優しさという名の放置」が招く悲劇
現代は、他人の言動に深く踏み込まないことが「マナー」とされる時代です。
おかしなことを言っても、周囲は苦笑いしてスルーし、波風を立てない。それは一見「優しさ」のようですが、実は残酷な「放置」でもあります。
本来なら、社会に出るまでの過程や、日常の人間関係の中で「それは恥ずかしいことだよ」「相手の立場を考えなよ」と、身近な誰かにたしなめられるべき機会があったはずです。
大人の恋愛や人間関係で、驚くほど基本的な「想像力」の部分で躓いている人を見かけたときに感じる、あの「今更感」にも似た違和感。
適切なタイミングで「小さな恥」をかき、修正される機会を奪われてしまった人が、SNSという剥き出しの戦場に無防備なまま立たされ、初めて受けるフィードバックがこの「集団リンチ」だとしたら、それはあまりに不運なことかもしれません。
恥をかき、大人になるということ
私自身の過去を振り返っても、思い出すのは顔から火が出るような恥ずかしい失敗ばかりです。
無知ゆえに人を傷つけ、無神経ゆえに厳しく叱られた記憶。当時は辛かったそれらの「手痛い体験」こそが、今の私の中に「一呼吸置いて、相手の背景を想像する」というセンサーを育ててくれました。
今のネット社会で「袋叩き」に遭う人々。
彼らを叩く群衆の正義感もまた、過剰で歪んだものかもしれません。しかし、その現象の根底にあるのは、「想像力の欠如」と、それを放置してきた社会の歪みではないでしょうか。
1対多の公開処刑が日常化してしまった世界。
せめて自分だけは、かつて自分がかいた「恥」を忘れずに、画面の向こう側にいるかもしれない「背景」に、想像力の網を広げていたいと思うのです。
